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2008年9月 2日 (火)

ぼくの方法論 

Pim0005mini 最近自分の音楽に取り組む方法を文章化する機会があって、その際にいままでしたためてきたことを整理してみることにしました。

自分の整理の為に書いています。

1、うたについて

 ぼくは歌をうたっているのであって、音楽を奏でているのではない。ステージを設けてもらってステージに立ち(時にはこしをかけ)、自分の作品をおひろめする。

 「うたは三分のドラマである。」とかいう歌謡曲寄りの志はぼくは正しいと思う。しかし歌謡曲の、大人数のオーケストラをバックにきらびやかな衣装で壮大に登場する雰囲気などは、実にエンターティメント性が強く金のかかった商売的なものに感じる。 ぼくはステージでやっているのは歌であって、逆にひとりでうただけうたっても大いに成り立つのだと思う。

 そして、うた作りやうたうに際し「うたは三分のドラマである。」という志で取り組む時、肝心なのはドラマ性である。たとえるなら演劇や映画、テレビドラマにおけるリアルな人間の生活再現(ドキュメント)だ。

たった三分程度のシンプルな「うた」という表現において、ぼくは限りなく現実性をだしたい。そしてそれをギターとうただけで演奏したいのである。

2、作曲について

 ぼくがうたを作る時のモチーフは、日常のエピソードが主となる。それは実際に自分が味わったことや物や人や雰囲気により印象づけられている記憶だ。まずはそれを曲としてあらわす。

 日常のエピソードが音になり曲になるなんてことは、とても説明しがたい話だが、その作業は曲調の微妙な変化や、音程の変化を考察して、印象付けられた事柄から派生される感情の動きを絶え間なくアイデアを出して作り出す(時にはそうでない場合もある)。この綿密に練り上げた曲にことば(詞)をつけていくのである。

 曲が最重視であり、ことばは日常の説明であるだけだ。文章ではいけない。うたは文章を読んでいるのではない。うたはうたわなければいけない。文章を楽しむのではなく、うたを楽しみ味わうのである。

 そして、うたのドラマ性はうたそのものにある。歌い手には実はあまりない。歌い手がその歌をつくったのは事実であるし、歌い手の感じたことの表現であるのには違いはない。しかし、それをうたう歌い手(ぼくであるが)はあまり重要でない。つまり、歌い手はただうたっている作品の背景を感じ、味わうことに徹すればいいだけなのである。

うたがその地点に到達し、完成するまでに幾度となく統合的微調整(曲と言葉との兼ね合い、曲の構成やリズム)がくり返されている。そしてその評価はおひろめの時にてためされる。

おひろめの場は大抵客席とステージとに二分され、向かい合わせになり、客に集中する意識を持たせるし、演じる側には緊張感を壇上の立場で与える。しかし歌い手は、ステージと客席との分割をこばみつつ、ステージに上がるのである。

「3、演奏力について」はまた今度書きます。

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